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天才相場師、本間宗久
秀吉のこよなく愛した桜の花に包まれるような大阪城、二度にわたる大坂の陣にまつわる多くの逸話が残っています。この原稿を書きながら、私はあらためてこの国の豊かな歴史に思い至り、しみじみと日本人に生まれてよかったと感じます。F
米相場で大成功した本間宗久(ほんまそうきゅう、1724-1803)。彼が大阪で躍動した時代は、徳川幕府が再建した大阪城天守閣が落雷で焼失した後でした。この天才投機家が大阪城天守の偉容を目にすることはなかったはずです。
大阪は世界で最初に成立した先物取引のマーケットでした。そして、その大阪で先物市場が成立してまもない時期に活躍した本間宗久は、世界で最初の本格的相場師・投機家といえるのではないでしょうか。
この投稿では、以下のことを考えていきたいと思います。
◆世界初の先物市場で活躍した本間宗久の足跡
◆日本人は、なぜ世界に先駆けて先物取引を制度化し、市場をスタートさせることが出来たのか。
◆今も独創的な日本の相場分析手法
山形県酒田市、ブラタモリを視聴
先日、私は夕食を妻と一緒に食べながら、録画してあったブラタモリを見ました。多くの方が既にご存じでしょうが、ブラタモリは、街歩きの達人・タモリさんがブラブラ歩きながら街の歴史や人々の暮らしに迫るという番組です。今回の訪問先は山形県酒田市。これは、おそらく本間宗久の話が出るかな、と直感し興味深く視聴しました。
https://www.nhk.or.jp/buratamori/map/list113/index.html
本間宗久は「出羽の天狗」と相場の世界で呼ばれるほど有名な人物です。晩年には「酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵米雨が降る」と狂歌に歌われるほど、天才相場師として全国的に名を馳せた人物でした。
しかし、残念ながらこの番組では本間宗久については、さほど詳しくは取り上げられず、本間家が財を成した背景を探ることが主眼となっていました。すなわち、徳川将軍家の所有する土地(天領)の水田から収穫されたコメを集積し江戸へ運ぶシステムを本間家が構築したことについて明らかにするという内容でした。
西廻り航路は当時天領であった出羽(山形県)の米を江戸まで効率よく大量輸送するために開発された日本海海運ルートで、その起点となったのが最上川河口に開けた港町・酒田でした。
この西廻り航路の完成によって、酒田港には、最上川流域の農村から、紅花・米・大豆・煙草などが集められ、全国各地との交易が盛んに行われました。
その後、北前船交易によって湊町・商人のまちとして飛躍的に栄え、上方などの文化が伝わっています。出所 酒田市ウェブサイト
https://www.city.sakata.lg.jp/sangyo/kanko/zuiken_sakata.html
本間家の二人の天才、宗久と光丘
本間宗久だけではなく、その甥の本間光丘(みつおか)も有名です。
18世紀初期、つまり江戸幕府8代将軍徳川吉宗の治世の時ですが、今の山形県酒田市を中心とした庄内地方(現在の山形県の北東部)に、日本の歴史上類を見ない二人の偉大な経済人が誕生しました。 一人は、日本一の大地主と呼ばれた本間家の中興の祖と言われる3代当主・本間光丘です。酒井家が治めていた庄内藩に融資や財政指南をして藩を支えたのみならず、後に隣藩・米沢藩の上杉鷹山の財政整理にも尽力しています。本間家の経済力は殿様を凌ぎ、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と人々に歌われるほどの財力でした。
もう一人は、酒田、江戸、堂島の米相場で「出羽の天狗」と言われた不世出の大相場師、本間宗久です。
出所 日本取引所グループ 日本経済の心臓 証券市場誕生!
(集英社学芸単行本) No. 517/2637山形庄内の本間家といえば、江戸時代には俗謡で「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と、大名を凌ぐ財力を唄われ、戦争前までの日本一の大地主として知られている。
中略
初代原光(もとみつ)以来、着々と積み上げられた本間家の富は、宗久とその甥で三代目を継いだ光丘の二人の天才によって飛躍的に伸び、巨富というに値するものとなったのである。
現代訳 宗久翁秘録 山口映二郎著 証取経済通信社 182頁
当時の酒田は堺に匹敵する商都だった
二人が生まれた庄内地方の酒田は、最上川の河口に位置し、その流域は多くの穀倉地帯に囲まれ、酒田湊(さかたみなと)は最上川流域の米を関西方面に送るための積み出し港でした。西廻り航路の開発以前は敦賀・大津から、西廻り航路開発以降は北前船での、関西圏との交易で大いに栄え、堺に匹敵する商都と言われていました。下関、大坂や、伊勢、江戸など当時の主要都市との交易が盛んで、多くの豪商が存在し、人衆という有力な豪商集団が治める、商人気質の強い町でした。
出所 日本取引所グループ 日本経済の心臓 証券市場誕生!
(集英社学芸単行本) No. 531/2637 Kindle
さて、宗久は本間家の初代当主本間原光(もとみつ)の5番目の息子でしたが、兄弟の中でも原光が特に目をかけるほどの商売の才覚がありました。そして、3代目の当主となることが約束されていた甥の光丘が姫路に修行に行っていたあいだの4年間、本間家の運営を任されました。
そしてこの4年間に、宗久は兄から財産分与された本間家の2割の財産を元手に、米相場の投機に乗り出し、酒田の米会所で巨万の富を掴んだのです。
宗久の足跡、成功→破産→大成功
酒田米会所で連戦連勝
宗久は酒田の米相場で連戦連勝の成功をおさめます。後で述べますが、実は彼はこの大成功の後、江戸へ乗り込んで米相場に取り組みますが、今度は手ひどく大失敗し一文無しになってしまいます。このことから類推すれば、宗久が最初に酒田で成功した当時、彼は未だ相場師として未熟な面もあったのだろうと、私には思えます。
情報の重要性、宗久の早飛脚
それでは、なぜ宗久は酒田の米相場で大成功することができたのでしょうか?
さて、宗久は酒田の相場でいったいなぜ、連戦連勝を続けることができたのでしょうか。それは何といっても宗久が、酒田の米相場の価格が、大坂の米相場の価格に連動することを知っていたことが大きいでしょう。つまり、大坂の価格を酒田の誰よりも早く知ることができたので、酒田で儲けるのは容易になります。当時、大坂の米相場の情報が酒田に伝わるには、2、3週間を要したとされています。これは通常西廻り航路でもたらされるもので、しかし酒田の米座仲間では、健脚の飛脚を雇い入れて大坂の堂島と酒田の間を7日で駆けさせたそうです。すると、通常のルートでしか情報を知ることができない多くの人々より、一部の人だけが大坂の最新情報を早く知ることができました。これが、宗久の連戦連勝の要因でしょう。早飛脚を雇うにはお金がかかりましたが、それ以上に儲けが大きかったのです。それでも数人が同じことをすれば利益はその分減ってしまいます。もしかしたら宗久は、何らかの方法で、早飛脚を雇う人々よりもさらに早く情報を知り得たのかもしれません。
日本取引所グループ. 日本経済の心臓 証券市場誕生!
(集英社学芸単行本) No.566/2637 Kindle (原文のまま)
通常2,3週間かかって伝わる情報を、7日で入手できるのであれば、利益を上げることはそう難しくなかったと思われます。上記の引用にもある通り、本間宗久が酒田の米相場で際立った成功を収めた背景に、何らかの情報入手の方法を活用していたと思われます。
酒田の米も大坂の米も同じ米ですが、価格だけが違っていました。しかし、その違いがわかるのが、通常2,3週間後であるのに対して、仮に本間宗久が7日後にその価格差を知ることができたのであれば、大坂よりも酒田のほうが安ければ買い、高ければ売っておけば、他の参加者が大坂の値段を知ってその値段に価格が変化したときに利益が出たはずですね。
情報の重要性、ネイサン・ロスチャイルドの伝書鳩
お恥ずかしいのですが、私はこの原稿を書くために本間宗久について調べていて、初めて前段の早飛脚の逸話を知りました。そして、すぐにネイサン・ロスチャイルドが、一族の膨大な資金の基礎を作った逸話を思い出しました。言うまでもなく、ロスチャイルド家は現在に至るまで世界史を動かしてきたユダヤの一族です。
1815年、ナポレオン率いるフランス軍と、ウェリントン率いるイギリス・オランダ・プロイセン連合軍との天下分け目の戦い、ワーテルローの戦いが起こります。イギリスは国債を発行して戦費を調達していましたから、この戦いの結果によってはイギリス国債の価格は天と地の差が生ずる、という局面でした。
当時、ネイサン・ロスチャイルドは、伝書鳩を使って、イギリス勝利の情報をいち早く入手しました。そして、あえて逆に大量に国債に売りを浴びせて市場の動揺をもたらし、暴落して紙クズ同然になった国債を非常に安い値段で買い集めた、ということです。
ネイサンはこの日の儲けだけで財産が2500倍に増えたと言われています。後に、「連合国はワーテルローの戦いに買ったが、実際に勝ったのはロスチャイルドだった」という諺(ことわざ)になりました。
ネイサン・ロスチャイルドが伝書鳩によって巨富を得たのは、本間宗久の死後ですが、いずれも情報を人より早く入手することによって利益を得た例と言えます。
情報の重要性、宗久やネイサンの時代と現代の違い
本間宗久やネイサン・ロスチャイルドが、一般の投資家より先に相場を左右するに違いない情報を掴んでいたとするなら、圧倒的に有利に売買に取り組むことができたでしょう。これらは、当時の交通事情や通信の未発達に起因するものでした。
しかし、いまや交通の発達や通信テクノロジーの進歩とともに、人より早く決定的な情報を入手することによって相場で利益を出すことは難しくなってきました。
私が証券会社に入社した当時(1980年代後半)には、株式のバイカイ【何円で何株の注文が出ているか、板(いた)とも言います】情報は簡単には見ることができませんでした。株式部に問い合わせして、FAXで送ってもらっていました。現在では、当時よりも広い範囲の注文状況が一般の個人投資家でも、その気になればインターネット経由でほとんどリアルタイムで見ることができます(※1)。
そして現在では、HFT(high-frequency trading、高頻度取引)といわれる取引で、専門業者は1秒に満たないミリ秒単位の極めて短い時間を制することにより利益を追求しようとしています。
しかし、価格形成に関して決定的に重要な情報を自分だけが他人より一足早く入手して、それによって利益を出す、というやり方は、排除される方向に進んでいます。マーケットへの参加者が公平・平等・同時に情報にアクセスできず一部の参加者だけが可能、というあり方はコンプライアンス的にも問題があります。
1秒の1000分の1、10000分の1、、、と言う具合にテクノロジーの進歩によって情報の取得速度を競う時間の勝負は、加速的にミクロの時間の勝負にまで及んできています。しかし、テクノロジー以前にルールとして、この類の人より早く情報を知ることは、近いうちにまったく不可能になりそうです。
本間宗久が早駆けを利用し、ネイサン・ロスチャイルドは伝書鳩を利用したりして、人より早く情報を得たものが情報を持たない者より有利な取引が可能になった時代は過去の話です。
情報の取得そのものではなく、マーケット参加者の誰もが平等に承知している情報を、いかに正確に認識し解釈するか、そして、その認識・解釈をいかに実際の資金運用に落とし込むか、それが的を射ているかどうかによって、取引で利益を出せるかどうかが決まる時代が来ています。
個人投資家であってもプロの機関投資家と、同じ情報を、同じタイミングで入手することができるようになりました。このように、情報が万人に平等に解放されたマーケットにおいて、取引の対象や手法を追求していくことは、大いにやりがいのあるチャレンジだと考えます。
※1 ただし、板情報を読み解くのはそれほど簡単ではありません。株式相場の本質的な理解がなければ板情報を上手に活用することは難しいです。そして、板情報はごく短い時間軸でのみ意味を持ちます(数分経てば全く違う局面に変化します)。
江戸で大失敗
前述の通り、宗久は甥の光丘が姫路で修行している間のショートリリーフのような形で本間家を差配し、自分に財産分与された本間家の2割の財産を使って酒田の米相場で連戦連勝を収めていました。そして、3年後、甥の本間光丘が姫路から帰国し、2代目の父、光寿没後に本間家3代当主となりました。光丘は宗久の投機を認めることはなく、二人の意見は食い違います。そして、最終的には光丘による宗久への義絶という事になってしまいます。
光丘はこの後、投機とは一線を画し堅実な経営で本間家を発展させました。庄内藩への融資や財政指南により藩を支え、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と歌われたように、藩主を凌ぐほどの財力を誇りました。
光丘から義絶された宗久は、酒田を離れ、江戸に向かいます。酒田は関西商人と縁の深い土地です。本間家から離れるには、江戸に向かうよりなかったのです。
さて、本間家を出た宗久は江戸へ行ってどうしたでしょうか。やはり江戸の米相場に乗り込みます。宗久は結果的に相場に失敗してしまいます。理由は詳しくはわかりません。一つには、酒田でやったような早飛脚がうまくいかなかったのかもしれません。日本取引所グループ. 日本経済の心臓 証券市場誕生!
(集英社学芸単行本) No.608/2637 Kindle
上記引用には、本間宗久が江戸での相場で成功できなかった要因として、酒田時代の早飛脚がうまく行かなかった可能性に言及しています。
以下は私見です。酒田→大坂への米の北前船による搬送にかかる2,3週間を、早飛脚により7日で知ることができたことが酒田で成功した要因だったわけですが、そもそも、大坂や江戸への米の配送元である酒田とは違い、江戸は大坂同様、米の一大消費地でした。仮に、大阪の米相場の動きを人より早く知ることができたとしても、その値動きに江戸の米相場が強く影響されたかどうかは疑問です。もちろん、相互にサヤ寄せする傾向はあったとしても、おそらく酒田時代のような旨味はなかったと推察します。
光丘と喧嘩別れして江戸に出た宗久ですが、人より早く情報を知ることによるメリットを失い、成功することができませんでした。この時期の宗久は、情報を人より早く得る「早耳」に頼らなければ利益を出すことができませんでした。「誰にとっても既知の情報」であっても、情報そのものではなく、その評価・認識において優越するという、より高度な相場師としてのステージには到達していなかったと思われます。
海晏寺(かいあんじ)の大悟
宗久は一文無しになってしまいました。出てきたときの事情が事情であるだけに、いまさら本間宗家の庇護を仰ぐわけにはいきません。本間家とゆかりのある酒田の海晏寺(かいあんじ)に身を寄せます。和尚の海山禅師と宗久は幼馴染でした。
錦をかざるどころか、相場に破れ、他に見の置きどころのない敗残兵として帰郷する身とあっては、そのみじめな心情、わびしさはひとしおのものである。故郷酒田への半月の旅の途次、宗久はこうしたみじめさを嫌というほど身にしみて味わったに違いない。
現代訳 宗久翁秘録 山口映二郎著 証取経済通信社 196頁一文無しになって故郷に戻った宗久は、故郷の海晏寺(かいあんじ)で座禅修行に努めました。ここで、自分の相場への驕りを悟り、無心の境地を知ることで、平常心を取り戻します。さらに投機における大勢の「投機家の心理」というものについて考えるようになりました。
日本取引所グループ. 日本経済の心臓 証券市場誕生!
(集英社学芸単行本) No.608/2637 Kindle
おそらく、宗久は無一文になった失意の時期に、深く相場について思索したのでしょう。それは、ただ米相場の値動きについて思索するということではなく、相場を形作る人間の心理、人間の本質に及んだと思われます。
この時期の宗久の考究は、後に弟子の善兵衛に語ったとされ今に伝わる「宗久翁秘録」にその片鱗を見ることができます。
宗久の話しを聞いた海山和尚はさっそく「非風、非幡」の公案を示した。この内容は昔、中国で城に立てられた据の揺れ動くのを指して、城兵達が「あれは風のために動くのだ」とか「いやいや、旗自身が動いているのだ」と言い争っている。ある儒者がこれを見て「風には非ず、幡にはあらず、仁者の心なり」と解いた、とされるものである。
この公案を示されて、七日間座禅しつづけた宗久は、遂にある境地に達し、開眼した。これがいわゆる宗久の「三位の法」の精神的な原因となる。すなわち三位とは、公案の示す「風、幡、心」であり、相場は幡(相場自体の水準)、風(天候など材料)とともに心(人気)によって動く、とするものである。
現代訳 宗久翁秘録 山口映二郎著 証取経済通信社 198頁
例えば、誰の目にも素晴らしい材料(例えば予想以上の好決算)などが飛び出したにもかかわらず、投資家の心理は一転して売り一辺倒へ暗転することなどはむしろよくあることです。材料が出る前に、既にその好材料を予想して相場自体の水準が上昇しすぎていた場合などによくみられます。「材料出尽くし」などといいます。この現象は宗久の言う「三位の法」をよく吟味しなければ相場を見誤る例と言えるでしょう。
あえて、宗久の極めた「相場の位置」、「材料」、「人気」に付け加えて、「時間(日柄)」の重要性を指摘しておきましょう。時間関係に関しては、ウィリアム・ギャン(1878~1955)が世界的に有名です。しかし、同胞のひいき目を差し引いても、一目山人(細田悟一)氏の到達点が際立っていると思います(私見です)。
大阪で大成功、「出羽の天狗」と恐れられる
江戸での大失敗を教訓に、故郷酒田で深く相場について思索した宗久は、心機一転、再度米相場に挑戦します。舞台は米相場の本場、大阪堂島です。当時大阪は日本の経済の中心地であり、江戸よりもさらにスケールの大きな経済の中心地でした。今度は大成功、大儲けの連続となります。宗久が堂島を歩くだけで、「出羽天狗はんのお出ましや」と人々にはやされるまでになりました。
賢明な宗久のことです。江戸での失敗から、大衆心理や市場心理に対する分析や対応もできるようになっていたのでしょう。『宗久翁秘録』には、現代の行動ファイナンスにも通じる、市場における人の心理がもたらす相場変動についてもいくつか記載が見られます。
日本取引所グループ. 日本経済の心臓 証券市場誕生!
(集英社学芸単行本) No.621/2637 Kindle
江戸へ凱旋、光丘との和解
その後、因縁の地である江戸蔵前に転戦した宗久ですが、今度は連戦連勝。悲願のリベンジを果たしました。
宗久は相場で成功し、やがて本間宗家をはるかに凌ぐ富を築いていったが、一方、宗家の光丘もまた、着実に事業を伸ばしていき、酒田本間の影響力は東北諸藩全体にまで及ぶようになっていった。二人の場所を違えた成功によってやがて互いの成功を認め合い、尊敬し合うようになる。
現代訳 宗久翁秘録 山口映二郎著 証取経済通信社 211頁
1783年、二人は和解しました。すでに宗久は68歳、光丘は54歳になっていました。
宗久は享和三年(1803年)八月晦日光丘より二年遅れて、根岸で死去している。享年八十七歳と当時としては非常な長寿であった。遺体は江戸坂本町の随徳寺に埋葬され、法名は光信院釈宗久とされている。
現代訳 宗久翁秘録 山口映二郎著 証取経済通信社 211頁
宗久が残した言葉(宗久翁秘録から)
◆人も我も下げ相場見込む時は海中に飛び入る気持ちで買う
誰しもが下げ相場を予想して、見込みどおり下がるものならば、相場は容易い。しかし、相場では、人気が弱気に片寄る時にはこれに逆らって上がるものであり、予想外の展開になるものである。下げ相場から上げ相場に入る転機はこうした時で、この時をのがさず「海中に飛び入る」の気持ちで臨むことだ。これは極意である。
現代訳 宗久翁秘録 山口映二郎著 証取経済通信社 38頁
これに関しては、商品相場で特に有益な心構えだと考えます。しかし、株式相場においては少し割り引いて考える必要があるでしょう。なぜなら、株式相場は非連続なものだからです。
米などの商品相場であれは価格は変動しても、基本的に効用は変動しません。米の価格が3倍であろうが3分の1であろうが、同じようにお腹に入れば満腹になります。
しかし、株式は人間が事業で利益を出そうと企てている(企業)、その試みそのものに値段がついていると言えます。例えば、昨日まで非常に効用があるとされる薬を作って良い商売ができていた製薬会社が、今日、重篤な副作用があることが発覚し巨額の賠償責任を負うことが確定したとしましょう。過去の蓄積を全て吐き出して倒産するしかない、ということもありえます。このような場合は、たとえ、半値でも、1/10でも、買い方に勝ち目はありません。
◆灯火が消える寸前に光強まる
十一月限で天井近くで買った米がある時、何らかの事情で商内もそう増えずに急騰することがある。
(中略)
毎日上がりつづけて天井打ちになって、ひとフシ下げてしまう。そういう時、少しでも取ろうと上がりきったところで買い重ねるのははなはだ良くないことである。慎むべきである。
(中略)
ここでは、太陽にまでも登りつめ、ここからどれだけ上がるかしれないように見える。これは灯火が消える寸前に光が一瞬強まるのと同じである。必ず明日にも利が乗ると思い決めていても買ってはならないものである。
ここでは相場の動きも強く、人気もそろって強く、強気の人ばかり集まるところである。ここが天井と判断するのが肝要である。考えるがよい。
現代訳 宗久翁秘録 山口映二郎著 証取経済通信社 69頁
「毎日上がりつづけて」天井打ち、という傾向は、相場の習性です。そして「商内もそう増えずに」というのも相場の本質を言い当てています。
上昇相場には、買い方が主導する素朴に買われて上がる相場と、売り方が主導する上げ相場すなわち売り方が売り惜しむために買いが優勢となって上げる相場があります。天井を打つ時は、「毎日上がりつづけて」あまりにも相場が強いので、売り方が売り惜しむために、さほど大きな買いエネルギーがなくても急騰する傾向があります。この場合、「商内もそう増えずに」、すなわち出来高を伴わずに上昇する様相となります。この局面では、一旦上昇が止まると、売りタイミングを伺っていた売り方の売りが出た時、それを支える買いのエネルギーはもはや存在しません。
◆思惑外れになったときの心構え
相場が自分の思惑に反して動き、損勘定になっているときに決してナンピンをかけてはならない。
見込み違いの時は、即座に手仕舞って、四、五十日は手を出さず、相場を休むがよい。
現代訳 宗久翁秘録 山口映二郎著 証取経済通信社 71頁
「下手なナンピン、素寒貧(すかんぴん)」などと言います。
ナンピンとは、買いの場合を例に取ると、例えば100円で買った相場が50円に値下がり、半値の50円になったときに、もう一度同じ量を買って、平均75円で買っている状態にすることです(手持ちは倍になります)。
難しい状態に陥っている買い値を、安くなってしまっているその局面で追加購入することによって、買い値を下げるという意味合いから、ナンピン(難平)というのです。麻雀をやる方ならピンフ(平和)という役をご存知かと思います。「平」というのは中国語では「平らである」ということだけではなく、「平らにする」という意味があります。
宗久はナンピンは良いやり方ではないと戒めています。
そもそも、手持ちの玉が損勘定になっているということは、その時のトレンドに逆行しているわけですから、真っ先に損切りすることを考えなければなりません。自分の失敗を認めて血を出すことは辛いことです。「自分の考えは間違っていない、相場のほうが間違っている」と考える方が楽です。
ナンピンを考える前に損切りをまず考えることは必要でしょうが、しかし、株式相場に中長期の時間軸で取り組む場合には、絶対にナンピンしてはいけないということではありません。投資のスタイル・対象の銘柄・時間軸のとり方によります。
宗久が取り組んだのは米相場の先物取引ですから短期限定の取り組みでしたが、現代の個人投資家が相場に取り組む場合は、時間軸を自由に取れることが強みの一つです。じっくりと相場に向き合う上で、手持ちの銘柄がうまくいかない場合でも、しっかりと大底を確認した上でナンピン買いをすることは有効です。
この場合もやはり、商品相場と違い、株式相場に値頃感は通用しませんから、必ず大底を確認してから実行する必要があります。大底をはっきり確認できない間は、「値下がりしたから」という値頃だけでナンピン買いをすることは避けなければなりません。
細田悟一氏は、著書、一目均衡表第七巻で、大底を確認してからでなければナンピンを行ってはいけないこと、大底を確認したあとであるために、ナンピン買いの値段が高くなっても一向に構わないということを書かれています。
ただしかし、たとえば帝石の1000円台を買って、ただ550円迄、何の手も打たなかった方は、直ちに550円を買うべきではない。
(中略)
ただ暫く虚心にして、帝石の大底入れ確認を待つべきであり、その為に、かりにいよいよの買い値が高くなっても、一向差し支えないのであります。
一目均衡表 真技能編 一目山人(細田悟一) 249頁
◆相場の後悔に二つあり
相場で後悔するのに二つある。これを心得るがよい。相場が高下する時、いま五、六日待てば十分利を取れるものを勝ち急いで二、三分は利を取り逃してしまう後悔、これは笑ってすませられる後悔である。
もう一つ、七、八分は利の乗っている米を欲に迷って手仕舞いかねているうちに下がってしまって損が出た場合の後悔。これは相場で苦労したうえでの後悔だから、非常に心を傷つけるものである。慎みを心得るがよい。
現代訳 宗久翁秘録 山口映二郎著 証取経済通信社 97頁
「利喰い千人力」「頭と尻尾はくれてやれ」「腹八分」などという言い方と同じ意味でしょう。英語では、"Bulls make money. Bears make money. Hogs (Pigs) get slaughtered." すなわち「雄牛(買い方)も熊(売り方)も儲けることはあるだろう、しかし、豚(欲張り)は肉になるだけだ」(欲を出すと必ず損をする、hogs(pigs)には貪欲な人・一人占めしようとする人という含意があります)。
以前、読んだ本でとても印象に残ったくだりがあるので、ご紹介します。それは、ジャック・D・シュワッガーの著書 「マーケットの魔術師」の中のトレードに関する夢の話です。
1980年、トウモロコシが記録的な高値を付けた年に、私は建玉制限いっぱいまでロング・ポジションをとっていた。そしてある夜、夢を見た。自分と話をしていたのだ。
「やあ、ジェリー。トウモロコシはどこまでいくかな」「4.15ドルだ」「今はいくらなんだい」「4.07ドル」「あと8セントのためにすべてをかけているということだな。お前は気が違ったのか」というものだった。たちまち目が覚めた。翌日、市場が開くと同時に、トウモロコシの建玉をすべて手仕舞うべきだと悟った。翌朝、相場は少し高く寄り付き、私は売り始めた。 ---中略--- いずれにしても、数分後、すべての建玉を手仕舞うことに成功した。そして電話が鳴った。私の友人カールからで、彼もまた優れたトレーダーであり、やはりトウモロコシを買っていた。「ジェリー、全部売ったのか?」「そうだ。ちょうどすべて手仕舞ったところだ」「どうしてそんなことをするんだ」と彼は叫んだ。「カール、トウモロコシはどこまで上がると思うんだい」と私は聞き返した。すると、「4.15~4.2ドルといったところだ」と彼は答えた。「トウモロコシは今いくらだ」と彼に聞いた。その途端、カチャンという音がして電話が切れた。さよならを言っている時間さえなかった。
Q それがトウモロコシ相場の天井だったのですか
翌日少し上がったかもしれないが、その辺りが結局天井だった。下落し始めたあとでは、私が持っていたようなサイズを手仕舞うことはもはやできなかっただろう。ジャック·D シュワッガー; 横山直树. マーケットの魔術師 (Kindle の位置No.8138). パンローリング. Kindle 版.
いわゆる「利喰い千人力」は、心得として重要なのですが、その前提として、ある程度は相場の先行き(目標値やいつ天底をつけるか)の見当がつかなければ、今、何分の利が乗っている局面なのかはわかりません。
米相場やトウモロコシ相場のような商品の相場と株式相場との間で、テクニカル的な値動きの習性という点で、共通点はたくさんあります。同じ人間がやっていることですから。
しかし、相場の対象となる「商品」と「企業の価値」との違いは非常に大きく、ファンダメンタルズ的に何を重視するかは全く異なります。
「腹八分」という心がけを持つことはひじょうに重要ですが、今自分が腹八分なのか、満腹なのかを自覚することはそう簡単ではありません。
◆相場に議論は無用
どれほど自分と心安い仲の人であっても、相場の助言をしてはならない。見通しを誤った場合は恨みをかうものである。総じて、相場の高下について議論するのも無意味なことである。相場に携る者で、自分の見通しをもたずに他人の見方で相場をする者はいないはずである。
(中略)
もっとも稲作の出来栄えや、諸国の作柄、豊作であるか凶作であるか、上方相場の動き、九州方面の様子を他の人々に問い合わせることは非常に良いことである。しかし、自分の考えはけして、他人に語ってはならない。これは相場の大極意である。常日頃から、厳に慎むがよい。
現代訳 宗久翁秘録 山口映二郎著 証取経済通信社 163頁
他人に自分の相場観を語ってはいけない、ということが相場の極意である、というのは実感するところです。私達IFAはお客様にアドバイスをするのが仕事ですから、そんなことは言っていられませんが、時々「友達に良い銘柄を薦められたんだけど、、、」というお話を拝聴することがあります。
何の利害関係もないのになにかの銘柄を薦めてくれるような人は、相場のことがわかっていない、とまでは言いませんが、相場の怖さはわかっていない、ということは言えそうです。そして、おそらく相場の怖さを知らない人のアドバイスは無益であることが多いのでしょう。
極めて優れたトレーダであるエド・スィコータの言葉をご紹介しましょう。
僕はたいてい 他のトレーダーのアドバイスは無視する。「 確かなこと」をつかんでいると信じているトレーダーのアドバイスは特にね。
ジャック·D シュワッガー 横山直树 マーケットの魔術師 (Kindle の位置No.3330-3331) パンローリング エド・スィコータへのインタビュー部分
エド・スィコータの思索は驚くほど深いです。脱線しますが、一つだけご紹介します。
勝っても負けても、皆自分の欲しいものを相場から手に入れる。負けるのが好きなように見える人もいる、だから、彼らは負けることによって手に入れるんだ。
ジャック·D シュワッガー; 横山直树. マーケットの魔術師 (Kindle の位置No.3406-3407). パンローリング. Kindle 版. エド・スィコータへのインタビュー部分
負けるのが好きな人は、負けることによって目的を達するとは、、最初目にしたときは、衝撃を受けました。アドラー心理学の応用のようにも思えますね。
、
◆休みのない相場は利ほど遠し
一年中相場を張っているものは利にほど遠い。しばしば相場を手仕舞って休み、仕掛けを見合わせるべきことが第一である。
現代訳 宗久翁秘録 山口映二郎著 証取経済通信社 163頁
立花正義氏著の「あなたも株のプロになれる」という書籍があります。この本の中に「ゼロをつくる」ことの重要性が繰り返し出てきます。この本は、相場の基礎的な考え方に触れることができる良書です。少し古いですが、今でも基本的な考え方を学ぶためには有益だと思います。
ゼロをつくる、というのは、全て現金化して、投資している対象(株や商品)を一旦ゼロにしてしまい、取引を完全に休むことを言います。
商品相場と株式相場は本質的に異なる
明らかなことですが米相場は商品相場の一種で年に一度の収穫がある穀物の相場です(いわゆる一年草、いちねんぐさ)。「収穫」という極めて重要ななイベントがある点で、貴金属や原油などの他の商品相場や、株式・債券・為替相場と決定的に異なっています。
しかし、収穫のある米相場などの商品相場ではなくても、全ての相場に周期性があります。私は、あらゆる相場において最も重要なのは、周期性のような、相場における日柄(時間関係)であると考えています。
勿論、均衡表は、相場の騰落を。就中騰落の出発と終末とを発見することを最大な目的とするものであるが、しかし均衡表最高の特長は、単なる騰落ではなく、実に「時間」が大問題なのである。
(一目山人著 「一目均衡表 真技能編」146頁から引用)
穀物相場などの場合は、必ず年に一度(もしくは数度)の収穫があるわけですから、半ば必然的に周期性を伴います。豊作の年、凶作の年、その予想と収穫時の結果を基本に、例えば凶作が予想されたために先物買い(簡単に言えば買いの予約みたいなもの)による買い占めで高騰が行き過ぎその後暴落、など様々なパターンが考えられます。
株式相場には「収穫」はありません。しかし、周期性が厳然として認められます。商品相場も株式相場も、人間により織りなされるものであり、商品と株式と対象は違えどもそれに取り組む人間のありかた、心の動きが同じであるゆえでしょう。
仮に人生80年として、人が相場に取り組むなど本格的に投資や投機を行うライフステージは、せいぜい、その半分の40年程度のものです(例えば30歳~70歳)。悠久の時の流れの中でそれは非常に短い時間だと思います。
人間の知見には限界があります。一人の人間がその人生において可能な到達点は、宗久が生きた300年前も現在もそう変わらないのではないのでしょうか。相場に携わる人間は今も昔も、同じように楽観し、悲観し、うぬぼれ、過信し、絶望するのではないでしょうか。そのような人間が営為する結果織りなされる相場の本質も不変なものであると思います。
そして、今、人類はAI(人工知能)が人間の知能を超えてくる局面を迎えようとしています。いわゆる「シンギュラリティ」(人工知能が発達し人間の知性を超えることによって人間の生活に大きな変化が起こるという概念)以降は上記の意味での「相場」はもはやその意味を完全に失うと考えます。一抹の寂しさを感じます。しかし、おそらく今しばらくは、この「相場」という不可思議なものは存在するのでしょう。
株式相場の特異性
株式相場は、投資の対象が「人間が営利を追求する企て(企業)」であり、その価値は非連続的に変動する点で、商品や債券・為替などほかの相場とは異なっていることについては、前述したとおりです。
株式相場の特異性、エド・スィコータの見解
(◆人も我も下げ相場見込む時は海中に飛び入る気持ちで買うに戻る)
Q 株式市場は他の市場と比べて違った動きをしていませんか。
株式市場は他のすべての市場と違う動きをするし、株式市場とも違う動きをする。言い換えると、市場を理解しようとすることは無理があるということだ。
---------------------中略--------------------
Q 株式市場が株式市場と違った動きをするというのは、どういう意味ですか。
簡単に認識できるようなパターンをめったに繰り返さないというところが、株式市場は株式市場と違った動きをするということだ。ジャック·D シュワッガー; 横山直树. マーケットの魔術師 (Kindle の位置No.3341). パンローリング. Kindle 版. エド・スィコータへのインタビュー
下線付記、太字強調は筆者
よく、株式評論家やコメンテーターと称する専門家が、「経験則によれば」などと言っているのを耳にしますが、こと、個別株式に関して「経験則」なる言葉を不用意に用いる姿勢には大いに疑問を感じます。
大阪堂島は世界初の先物市場
本間宗久が活躍した時代の日本は、金融テクノロジーの分野で世界の最先端のフロントランナーでした。当時の大阪堂島米会所は、世界初の先物市場でした。
In 1730, Japanese merchants petitioned shogun Tokugawa Yoshimune to officially authorize trade in rice futures at the Dojima Exchange, the world's first organized (but unsanctioned) futures market.
"The Dojima Rice Market and the Origins of Futures Trading" by David A. Moss and Eugene Kintgen
https://www.hbs.edu/faculty/Pages/item.aspx?num=36846
筆者訳 1730年、日本の商人たちは徳川吉宗に、堂島取引所のコメ先物取引を公的に認めてくれるよう要請した。そして堂島が世界初の組織化された先物取引のマーケットであった。
立会人の手振りと呼ばれる、手の動きによるサインの伝達方法は、現在のシカゴの取引所で行われているものとほとんど同じでした。諸説ありますが、シーボルトがドイツに伝え、それがシカゴに伝承されたとも言われており、この説は年代的にもピッタリと符合します。(以下の引用文中の「CBOT」はシカゴ商品取引所=Chicago Board of Trade)
--------「売り」と「買い」のアクションは、今のシカゴの取引所と同じですね。
島・・・1730年に始まった堂島米会所と1848年に始まったCBOTが、なぜ同じような身ぶり手ぶりになってしまったのかについては、3つの説があります。一つは「ただ偶然に似てしまった」という説です。まあ、洋の東西を問わず、同じ人間が同じような取引をするためには、自然と同じ身ぶり手ぶりになったんだという説ですね。
--------なるほど
島・・・次が「シーボルトが堂島を見て伝えた」という説です。歴史的な事実としてもシーボルトは堂島を見ているらしいんですね。それを彼が日本からドイツに伝え、ドイツからアメリカ・シカゴという順番で伝わっていったのではないかというわけです。年代的にはきっちり合うし、とても自然だと思います。私はこの説を支持しています。もう一つは「長崎のオランダ商館が伝えた」という説です。こういうふうに考えたほうが自然だとおっしゃっている方もいます。経済評論家、島実蔵氏の談話、NHK出版 マネー革命2_58~59頁から
かつては東京証券取引所でも取引員(場立ち)が、手振りでサインを出して、離れた場所にある所属証券会社のブースとの間で注文の取次を瞬時に伝えていました。しかし、1999年にすべての取引がシステム化されて以降は、東証で場立ちの鮮やかなサインを見ることはもはやできません。
筆者は、システム化されるより以前の大発会(その年最初の取引日)に、東証の立会フロアに入れてもらったことがあります。独特の迫力を感じました。人間の種々様々な感情や意志がうねりになって一体化し、一つの方向に動いていくような、、
当時の大発会は、女子社員が振り袖などの晴れ着で出社し、取引も午前中だけで、兜町は新年を祝う華やかな雰囲気でした。証券会社の店頭ではお客様にお神酒を振る舞い、午後は仲間と酒盛りです。
20年たった今では証券会社の店頭に株価ボードは、ほぼ見かけません。お得意様が相場を見に毎日のように通ってくる光景は過去のものとなりました。月日の経つのは、あっという間です。
日本オリジナルのテクニカル分析
日本は、世界最先端の金融テクノロジーである先物取引制度を整備(発見)したわけですが、相場分析の手法においても、わが国は現在に至るまで、独創的な手法を編み出してきたと考えます。その一例として、細田悟一氏の一目均衡表をご紹介します。
相場を観測する上で時間関係(日柄)を重視した人物にウィリアム・ギャン氏が存在します(1878-1955)。わが国ではこの分野において、細田悟一氏(1898-1982)が一目均衡表をいう書物を残していらっしゃいます(全7巻)。彼のペンネームは「一目山人」、一目均衡表の考案者として世界的に有名ですが、均衡表はあくまでも道具であり師の真髄は相場における時間関係を精緻に構築した点にあると私は考えています。
細田氏の著書である一目均衡表(全7巻)の後半部分は長く絶版となっており、歴史に埋もれかけていることを危惧します。一目均衡表の真髄は「一目均衡表」なる図表を作成して、したり顔に「雲」を抜けたからどうのこうのと解釈するようなものではありません。第一、「雲」なる用語は細田先生はただの一度も用いていません(正しくは先行スパン)。そして、先行スパンが輝くのはごく限られた局面であり、その意味するところは相場の状況によって正反対にもなりえます。単純にこれを上抜けたから、下抜けたからと解釈できるような浅薄なものではありません。百歩譲ってどんなに単純化しても少なくとも、先行スパンの様相には順行・逆行の2つの局面があることは明らかであり、これを「雲」なる用語で一緒くたに述べるのは論外と考えます。
第一、一目均衡表による全体的な相場観測において、先行スパンがことさら重視されるということは全くありません。むしろ、どちらかといえば「脇役」と言えます。
世界中で使われている一目均衡表ですが、正しく理解されているとは思えません。英語で一目均衡表を"ichimoku cloud"と呼んでいることが、曲解されている現状を示していると考えます。おそらく、一目均衡表の図表の中で、先行スパンの様相が図形としてわかりやすい、という理由だけで「雲 (cloud)」をことさらに重視するということになっているのでしょう。細田氏が残した書籍からすると、まったくかけ離れた理解と言わざるを得ません。
「一目均衡表」の真価を、より正確に、相場に携わる人々が認識することを、切に願います。
本間宗久はテクニカル分析の先駆者?
本間宗久はローソク足の配列(いわゆる線組)観測法についても伝承を残しており、売り・買いのシグナルとして「三川宵の明星」とか「赤三兵」などを考案したテクニカル分析の開祖でもあると言われています。しかし、本間宗久自身が、そのようなテクニカル面に踏み込んだ伝承を残した形跡はなく、いわゆる酒田罫線が彼に由来するかどうかは疑わしいと思われます。どうやら、明治以降に創作されたことであって信憑性がないようです 。
また本間宗久と言えば、証券関係者の間では、「酒田五法」の元祖で、現代のテクニカル分析(チャート罫線分析)の先駆者だとされています。しかしながら、この説には実は明確な根拠は存在しません。宗久の相場の極意の書として、晩年、彼が酒田出身の弟子の善兵衛に語った内容が『宗久翁秘録』として今に伝わっていますが、その中にチャートの話は一切出てきません。確かに、出身地の酒田が発生元とされる「酒田五法」と言われる株価チャートのパターンを5種類に分類する投資手法がわが国の投資家の間で伝えられてきたことは事実ですが、明治以降に出版された沼田五法をはじめとするチャート分析の解説書が、「本間宗久」の名前をタイトルに借りて権威づけしたことがこういう風評を生んだ要因だったのでしょう。ですから、宗久が酒田の米市場で連戦連勝だった理由は、テクニカル分析の技術というわけではありませんでした。
日本取引所グループ. 日本経済の心臓 証券市場誕生!
(集英社学芸単行本) No.635/2637 Kindle
上記引用において、「沼田」五法、とあるのは、「酒田」五法の誤植であると思われます。「沼田」五法なるものを筆者は発見できませんでした
私見ですが、この分野(ローソク足の線組によるチャートリーディング)においても、上記の細田悟一氏(一目山人)の「一目均衡表第四巻・我が最上の型譜」や柴田秋豊氏の「逆張り法示の図型と奥義」が非常に優れた考察を行っていると考えます。「線組」とは、ローソク足の陽線・陰線の配列や長短などの組み合わせのことです。チャートリーディングの大きな要素と言えます。
日本の豊かな歴史、数多の偉大な先人
なぜ、われわれ日本人は世界に先駆けて、先物市場を整備することができたのでしょうか。ただの偶然だったのでしょうか?
私は、日本人の豊かな歴史に裏打ちされた、高い教育水準や、正直を良しとする倫理的な国民性が、高度に制度化された先物取引の運用を可能にしたと考えます。(これ以降は、相場とは無関係な内容です。ご興味がある方は目を通していただければ幸いです。)
数学の天才、関孝和
わが国は、世界に誇る豊かな歴史と様々な分野で傑出した人物を輩出してきました。
たとえば数学の世界では、関孝和(?~1708)が円周率を小数点以下11桁まで求めるなど、鎖国により海外の知見からは隔絶されていたにもかかわらず、独自の研究により、当時のヨーロッパに遜色のないレベルに到達していました。単純な比較はできませんが、イギリスのニュートン、ドイツのライプニッツと比較されることもあります。
世界的な有名人としては、数学者のニュートン(1642-1727)とライプニッツ(1646-1716)がイギリスとドイツにいました。これがために関孝和の数学は微積分の創始者と並べられて紹介されることがあったのですが、お互いはもちろん知っていませんでしたし、オランダ経由で微積分が当時の日本に入ってきた形跡は見当たりません。関の数学が微積分のレベルに到達していたということもしばしばいわれますが、幾つかの公式に類似のものがあるものの、全体としてみると当時の和算と微積分は全く発想の異なった数学であり、単純な比較はできません。
前述しましたとおり、関孝和は円周率を精細に計算しました。円に内接する多角形を突き詰めていった思考過程は「括要算法」によって知ることができます。
中国から最初に伝わった天元術は方程式といっても未知数が1個の場合にしか対応できませんでしたが、傍書法による数式を導入したことで、複数の未知数を1つの式に表現することができ、そこから数式の処理が簡単になりました。現代数学の用語を用いていえば、連立方程式の未知数消去が容易になったということになります。関はこの天元術の応用を様々な分野の問題に適用し、例えば正三角形から正20角形までの正多角形それぞれについて、その面積を計算する実例を『括要算法』で実践しています。
http://www.ndl.go.jp/math/s1/2.html
国立国会図書館(同上)
分厚い知的水準、一握りの天才だけではない
江戸時代の数学オタクたち
関孝和のような、ずばぬけた天才が世に出ただけではありません。ごく普通の多くの日本人が、高度の知的水準を実現していました。興味深いのは、農漁村でも都市部と遜色なく教育水準が高かったことです。
江戸時代の数学マニアたちは、むずかしい問題が解けると、大きな板に問題と答を書いて立派な額に入れ、神仏への感謝の気持をこめて神社、仏閣に奉納した。これは、日本独特の数学論文発表法で、たいていは一つの塾の門人たちが一枚の板にいくつもの問題と答えを書き並べる形式をとっている。こうして、自分の研究を公開すると、もの好きたちが集まっていろいろ批評したり、もっとうまい解き方を考えたりした。
石川英輔 大江戸生活事情 No.2581/2997 Kindle版
算額の問題や答はすべて漢文で書いてあるので、それだけでもむずかしいが、現在の大学の数学科を出た程度では手におえない問題が多いということである。
面白いことに、算額は都会よりも農漁村に多い。たとえば、東北地方は冬が長く、昔は農閑期に出稼ぎをすることもなかったので、ひまつぶしに数学が盛んだった。
同上 No.2590/2997
江戸の就学率は80%
徳川幕府のおひざもとである江戸では、大半の子供が身分に関係なく文字の読み書きを習っていました。その比率たるや80%に達し、モスクワはその100年後でも20%、ほぼ同時代のイギリス大都市で20~25%に過ぎませんでしたから、民族としての知的水準の高さは際立っていました。
初等教育は、子供が7、8歳から11、2歳ぐらいの間にいわゆる寺子屋へ行って文字の読み書きを習うのが普通だった。寺子屋というのは関西系の言葉で、江戸では学校に〈屋〉をつけるのをきらって〈手習師匠〉と呼んだ。
19世紀に入った文化年間(1804~18)になると、江戸では、どこの町内にも二人や三人は手習師匠がいて、江戸府内では大小合わせて千五百もの塾があったという。
同上 No.2338/2997こういう手習塾への就学率がどれぐらいだったかというと、十九世紀中期の嘉永年間ごろの江戸府内(朱引内)では、すでに80パーセントに達していて、市街地では就学しない子供は稀だったらしい。
同上 No.2414/29971910年代のモスクワでは、就学率が20パーセントだったそうだが、これでは革命が起きても不思議はない。1838年(天保9年)に始まるイギリスの最盛期ビクトリア時代でさえ、大工業都市の児童就学率は、20~25パーセント程度だった。
同上No. 2419/2997
女性の教養は男性以上
古典落語には、うっかり者で何だかだらしない親父さんと、賢い締まり屋のおかみのコンビが、お決まりのように登場しますが、それがむしろ普通の組み合わせだったようです。
江戸の女子教育は、手習の段階から男より水準が高かった。中小の商工業では、女性の果たす役割が大きいため、 女子教育が重要になり、日本橋、赤坂、本郷などは女子の就学数の方が多かった。
同上 No.2443/2444また、女子教育と男子教育の最大の違いは、男は職業を覚えることが優先されていたため、手習教育も適当なところで切り上げて就職させることが多かったが、女子は、読み書きだけでなく、芸ごとや、さらに高い教養を身につける必要があった。そして、その総仕上げが武士の家庭に入り、本格的に行儀作法や教養を身につけることだっ た。
同上 No.2449-2452
松蔭渾身の激、留めおかまし大和魂
吉田松陰が松下村塾で弟子を指導したのは、わずか2年ほど。8畳一間でスタートした私塾に過ぎません。しかし後にわが国存亡の危機を救う人物を数多く輩出しました。
高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、木戸孝允など総勢90名があまりが松蔭の教えを受けたと言われています。
日本人が長い間、知的・精神的に深化してきた故に、国難に際して幾多の英雄たち(多くは20代でした)が彷彿と世に出ました。処刑直前に書かれた松蔭の激は、間違いなくわが国の危機を救ったと思います。https://www.aozora.gr.jp/cards/001741/files/55749_62874.html (留魂録全文 青空文庫)
17世紀には、日本以外のほぼ全ての有色人種が欧米列強に侵略され植民地化されました。仮に日本国内で本格的に内戦になれば、彼らに付け入るスキを与えることになったでしょう。列強はそのようなチャンスを虎視眈々と狙ってたと思われます。
僅かなスキを見せても命取りになりかねない極めて危険な時期に、当時権力を握っていた側の徳川幕府が、みずからその権力を放棄しました(大政奉還)。そして徳川幕府の幕臣であった勝海舟と敵方の総司令官である西郷隆盛との会見により江戸無血開城が実現しました。勝も西郷も、それぞれが味方からも敵からも命を奪われかねない状況の中、二人の話し合いだけで、幕府側が将軍家の居城とお膝元の大都市江戸を朝廷側へ、あけ渡しました。これは、世界史に例を見ない奇跡であったと思います。私達日本人だからこそ可能だったと考えます。
危機を回避して植民地化を免れるだけではなく、またたく間にアジアの強国として勃興することができたのも、民族としての知的水準の高さがあってこそ、欧米の科学技術を容易に理解し自分のものとして発展させることができたのだと思います。
日本は世界に先駆けて、金融工学の原型である先物取引の制度化を実現する事ができました。わが国存亡の危機を切り抜けることができたのも、豊かな歴史に裏打ちされた、民族としての地力・正直を良しとし、約束・契約を遵守する民族共通の暗黙知がそれを可能にさせたのだと考えます。